速読スクール内で起こる出来事や、講師のプライベートなど、
適当に思いつくまま綴っています・・・気まぐれ三昧です、はい。。。
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パワースポットブームですよね…。
先日大阪の実家に帰省した際、
ママが拾ったのをお福分けしてもらいました。
見えにくいのですが、
それぞれの石に 「五」 「大」 「力」
と、墨で書かれてます。
住吉大社の第一本宮の裏手に立つ杉の木。
下に敷かれた「五大力」の玉砂利を集めてお守りにすると
心願成就のご利益あり、とのことです。
「五大力」とは?
仏教用語で、
体力・智力・福力・財力・寿力
のこと。
願い事が叶ったら、
自ら小石に「五・大・力」と書いて、
倍の石を返納するんだとか。
と、
沿線の南海電鉄が発行する
月刊のフリーペーパー、「NATTS(ナッツ)」
に詳しく載ってました。
(超ローカル情報でマニアックです。
それもそのはず、京阪神エルマガジン社発行ですから。)
玉砂利のある場所はきちんと祀られており
やや高さがあって、中に入れないようになっていて、
手を伸ばして探すそうです。
高校時代の同級生5人ほどで必死に探したらしく、
来年70歳になるおばあさんたちが
きゃあきゃあとはしゃいでる姿を想像して
思わず笑ってしまいました。
もらって喜んでた私ですが…
いったいどの力を望んでるんでしょう?
自分でもよくわかりません。
「とりあえずそこそこの幸せでよい」
ので、欲張らないことにします(笑)。
ちなみに、私の携帯の待ち受けは
明治神宮の「清正井」です。
「落ち着いて、冷静になれる」という、
ラブラドライトの指輪もつけてます。
神様どうし、ケンカしないでください。
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先週の金曜、
ふくやま美術館へ。
6月12日(日)まで
『森村 泰昌 モリエンナーレ まねぶ美術史』
開催中です。
モリムラ氏といえば、なにわが生んだ世界的な現代芸術家。
若き頃から、
「まねぶ」
(「学ぶ」と「まねる」という二つの言葉の古語)
という姿勢を通して、いろんな作品を創ってきました。
それは絵画だったり、書だったり、写真だったり。
元になった作品と対比する形式で
展示されているので、
有名な作品にもたくさん出会えます。
とってもお得な感じです。
「模倣」を嫌う人もいます。
「独創性がない」 「人のやったことをマネるのはさもしい」
そんなふうにとらえられることもあります。
ですが、何事も「型」から始まります。
先人のありようを踏まえてこそ、
より優れたものは生まれるのでしょう。
「 『型破り』 は、型にはまらなければ成し遂げられない」
そう言った人がいるそうですが、本当に素晴らしい言葉だと思います。
模倣といえば…
もう20年ほど前になってしまいますが、
清水 義範氏のパスティーシュ(フランス語で「模倣」の意)
が、売れに売れた時期がありました。
ある有名作家の文体や、
ある書物の世界観をまねた作品が多く、
めちゃめちゃ面白かったです。
(今思うと、ちょっとバブルの浮かれた感じがあったのかも?ですが)
高校時代の友人は、大学(文学部)の卒論で
清水氏を研究しようと真剣に考えてました。
(結局、教授に「それはちょっと…」と言われて、中島 敦になったはず。)
「まねる」 ことは、深い洞察力とその対象への強い愛が必要です。
そして、その意味を理解するには
観る側の人間が元の作品を知っておく必要がある、という事実。
私がブログを書かせて頂くようになって、1年半。
毎回、悪戦苦闘です。
ですが、
「今回はこの路線で書こう」
「今日は△△風でいってみよう」
と考えているとき、とても幸せな自分がいたりします。
そのために、いろんな世界を知らなければ。
すべてはパロディです。
数日間ずっと降り続きましたね。
月曜は久々に「梅雨の晴れ間」。
と、いうことで洗濯

張り切りました

月末はいつもよりちょっとだけ気合いを入れて
掃除や片づけをするようにしています

ですから、収納術には大変興味あります。
『美しい収納術。』 カーサ ブルータス6月号 マガジンハウス刊
「収納は『しまう』行為ではなく、『取り出す』ための行為」
ホントにその通りですね。
当たり前のことなのだけれど、
言われて初めて気づいた、説得力のある言葉。
「思いきって『セレブ捨て』」 も、ガツンと響きました。
最近出会った、もう一冊。
『暮らしを美しくするコツ509』 暮しの手帖編集部 著 暮しの手帖社刊
料理に、掃除に、洗濯に、ダイエットに、快眠に…。
短くてシンプルな工夫とコツが満載です。
現編集長・松浦 弥太郎氏のエッセイも入ってます。
「ふーん、なるほど!」が多いけれど、
「あっ!これはもう実行してる」
と思えるものにも必ず出会えます。
ちょっと、うれしい。
前回の 『ダイオウイカは知らないでしょう』 のゲストとして出ていた
私の大好きな歌人、穂村 弘氏の本です。
『絶叫委員会』 穂村 弘著 筑摩書房刊
ほむらさんが、今までに出会ってきた
印象的な言葉たちに対する冷静な分析。
淡々とした筆致でありながら、
なんとも言えないおかしみ(ペーソス?)が募ります。
とりわけインパクトが強いのは
スピーチなどの第一声についての章、
『出だしの魔』。
それを読んで、
派遣社員として入社したさいに
自己紹介で、緊張し過ぎて
「 △△(←自分の名前)と思います 」
と、いきなりメガホン(体育大会や朝礼とかで先生が使うヤツ。)で
フロア中に聞こえるように発表した
という、職場のある先輩を思い出しました…。
(私はその場にはいなかったのですが。)
それを想像するとき、他人事ながら、私はいつも
頭の芯のある一点が妙に冷たくなります。
(ちなみに、その先輩は以降ずっと
「自分の名前に責任が持てない人」と呼ばれてました。)
わぁーっ。
そしてもう一つ、
『絶望の宝石』。
「子供の世界は純度の高い絶体絶命感に充ちていた」
という、ほむらさんの言葉。
そうだよなあ。
子どもの頃って、
本当に「どうしよう。どうしよう。」って
この世の終わりみたいに泣いたりしたよなあ。
だけど、どっこい生きている。
「あんなに沢山の絶体絶命を潜ったのに」。
どの章も、
「自己」と「世界」との関係性を問い続ける
ほむらさんらしい言葉遣いで
これ以上は不可能なほど、丁寧に、適切に
表現されています。
こんな風に文章が書けるようになればなあ。
皆様 突然ですが。
俳句派でしょうか? それとも 短歌派でしょうか?
私は昔からダンゼン短歌派です。
(どっちでもねえよ!という声も聞こえてきそうですが。)
俳句って、音数が少なく(十七文字)
余計なものをそぎ落とし過ぎちゃって、
なんだかもの足りない、枯れきった感じがするのです。
季語の制約があるのもハードル上がる気がして。
(俳句派の皆様、失礼なこと言ってホントすみません。
その味わいが分かるようになるのには、私はまだ未熟過ぎるということで。)
短歌は短歌でもちろん、
奥深く難しいことには変わりないのですが。
「意外と面白そう」
「ちょっとやってみようかな」
と思わず言ってしまいそうな本を見つけました。
『ダイオウイカは知らないでしょう』
西 加奈子 / せきしろ 著 マガジンハウス刊
今をときめく作家お二人が、短歌に挑戦!
西 加奈子女史は 『さくら』 『きりこについて』 など独自の作風を持ち、
せきしろさん(ハリセンボンのはるかちゃんの恋人という噂)は、
「無気力文学」というジャンルを創ったと言われる方。
ということで、もともとの素養は十分過ぎる方たちですが…。
いいなあ、自由って。
現代短歌って、「素人の時代」と言われてるそうですが
(長年やればやるほど、みずみずしさが失われて
技巧的になってしまうということで。)
その意味が、ホントによく分かります。
プロの歌人って、つくづく大変だなあ。
ゲスト(歌人から、作家・お笑いなどいろいろ)から
お題を出されるのですが、
二人の歌は、見事なまでに「ぶっ飛んでる」のです。
三十一文字じゃないことも、何の不思議もないというか。
「そう来たか」
「えぇ~!そっちなの?!」 みたいな。
難しいはずのお題も、
まんまとすり抜けて、すこ~んとつき抜けてます。
笑いとったり、せつなかったり。
これは、
マガジンハウスの雑誌 『アンアン』 に
「短歌上等!」 として (タイトル素敵でしょう?)
約1年半にわたって連載されていたものです。
マガジンハウスの雑誌、大好きです。センスよくて。
これと、「村上ラジオ」が楽しみで。
最後に。
単行本化されるにあたって、
タイトルとなった加奈子女史の一首を。
解釈はご自由にお願いします。
(プロの穂村 弘氏も大絶賛でした。)
あの方が覚悟を決めた瞬間をダイオウイカは知らないでしょう